緑と青と黒いワンピースと僕







「緑と青と黒いワンピースと僕」














吸い込まれてしまいそうだ。


彼女を見た瞬間、そう思った。

草の緑と空の青の間で黒いワンピースを着た彼女は静かにゆっくりとそこを歩いていた。

風が流れると、草と共に揺れる長い髪、ほのかに香る彼女の匂い。


嗚呼、吸い込まれてしまいそうだ。


彼女は、僕に気づいているのか気づいていないのかわからないけれど、ゆっくりゆっくり足元を見ながら草を揺らして歩いている。

名前は?どこに住んでるの?好きなものは何?

脳みそに言葉がずらりと並んだ。

でも、言葉なんてかけなくても何となく彼女のことは昔から知っているようだった。

彼女を見ていると、安心感が溢れ出てくるんだ。

まるで母親のお腹の中でぷかぷか浮いているときみたいに。

ゆっくりゆっくり、彼女の少し後ろを歩いた。

ワンピースの裾を上げ、そこから見える足に草が刺さっている彼女の足元。

よく見ると、裸足だった。

どうして足元ばかり見ているんだい?

蟻を踏まないためか、石に躓かないためか、それとも、眩しいほどの空の青を見れないため?

コンピュータで加工したような、自分の目を疑うほどの素晴らしい映像が今目の前で動いている。

舞台は青と緑。

主人公は名前も知らない黒いワンピースを着た少女。

脇役には、忙しく動き回る小さな働き者と時々空を舞う鳥たちと僕。

このだだっ広いただ緑だけが並ぶ草むらを、彼女は何も言わず歩き続けている。

不規則に吹く風が草を擦り合わせて、その音がとても心地よい。

目を閉じてゆっくり深呼吸をしてみた。

鮮やかな緑色から香るほのかな生命の匂いと、青色から香る綿菓子のような雲の匂い、そして彼女の匂い。

草が擦り合う音と、彼女のワンピースが動く音、遠くに聞こえる飛行機の音、どこかにぶつかって跳ね返ってきた風。


うるさいほどに規則的に動く、僕の生命の源。


嗚呼、僕は生きている


また、母親のお腹の中に浮かんでいる気持ちになった。

絶対的な安心感、彼女から解き放たれている何か。

この感覚を忘れないように、ゆっくりと目を開けた。

すると、僕の目の前に彼女が立っていた。


「夕暮れの空赤く、もうすぐに暮れてしまう。

 だから飛べない翼を、捨てたら、捨てたなら。

 あたしは舞い上がろう。」


真っ直ぐに目を見て、彼女はそう言った。

僕はどうしたらよいかわからず、いつの間にか早くなっている鼓動に気づきもせず、ただ彼女の目をじっと見ていた。

思考回路は思っていたより早く動いてくれない。

瞬きさえ、指先も髪の毛も、一瞬も一ミリも動かせなかった。


「生きていくためだけに、生まれてきた。他に意味があるの?」


僕の顔を覗き込むように言った。

生きていくためだけに、生まれてきた。

他に意味があるの。

僕は彼女と同じようにもう一度心の中でそのセリフを言う。

「君は、誰?」

咄嗟に、止まりかけている思考回路から搾り出された一言を吐いた。

「あたしは、」

真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに僕の目を見て彼女は言い掛けた。

「あたしは、」

母親に似た安心感を持つ彼女、吸い込まれそうな雰囲気を持つ彼女、緑と青に挟まれた黒いワンピースの彼女。


「あたしは、」


彼女の口が小さく動く。

そう言い掛けたとたん、僕らの頭上に鉄の塊が飛んだ。

この近くに飛行場があって、この辺は驚くほど低空を飛んでいるそれ。

だから、当たり前に声なんて聞こえない。

太陽は隠され、一瞬暗くなった。

彼女は、そんな轟音も気にせずに口を動かした。

一瞬たりとも見逃さなかった。

彼女は僕の目を見、僕は彼女の口を見た。

いつの間にか飛行機は通り過ぎており、彼女はまた歩き始めた。


母親に似た安心感を持つ君、吸い込まれそうな雰囲気を持つ君、緑と青に挟まれた黒いワンピースの君。


「ねぇ、これからどこへ行く?」

彼女は振り返らず、当たり前のように足元を見ながら言った。

「え、どこって。」

焦って何を言っていいのかわからなかった。

いい歳こいて、まるで中学生の初恋のようだった。

動揺して気づかなかったが、その声が僕の神経を震わした初めての彼女の声。


「体のどこかに流れる あなたと似たもの

 それが何か 感じられたら」


ワンピースを持っていた手を離し、まるで鳥の翼のように両腕を広げ、気持ちよさそうに歌いながら歩いている。

「君の行きたいところに行こう。」

「ふふふ。本当?」

「うん。」

「じゃあ、手をとって。」

そう言って、初めて僕を振り返り右手をそっと差し出した。

その瞬間、僕はまたデジャビュを覚えた。

涙が出そうなほど優しく微笑んでいる彼女を見て。

ぼくはまた母親のお腹の中にもどった。



果てしなく続く草の緑と、最端なんて見えそうもない空の青、そして黒いワンピースを着た彼女。

嗚呼、吸い込まれてしまいそうだ。

いや、もういっそのこと吸い込まれてしまおうか。

僕が存在する原点へ。



初めて憎いと思った鉄の塊が、僕らの上を飛んでいたとき、確かに彼女は言ったんだ。






「あたしは、天使。」








リリイ・シュシュ「共鳴(空虚な石)」「飛べない翼」より引用































 
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