世界が三十度傾いていたら







「世界が三十度傾いていたら」














彼は疲れきった顔で、口元をほとんど動かさずに言った。

「もう、疲れたんだよ。何もかもに。」

そう言って、無造作に髪をかきあげる。

うつろな目で、空を流れるように眺めていた。

しゃがれた声で言う。

「なぁ、生きるってなんだろう。」

たばこに火をつける。

空を見つめる。

おもむろに腰を上げ、ぐしゃぐしゃになったつやのない髪の毛をさらにぐしゃぐしゃにする。

まるでそこに何かが居るかのように、彼は何かに向かって話し出す。

「そう、俺は何者でもない。何者でもないのに、何故生きているんだ。不思議で仕方がないよ。心臓はちゃんとあるのかな。」

彼は、本来ならばそこにあるだろうと思われる、左胸をぎゅっと握り締めた。

「動いてるんだよ。規則的に。つまんねぇ。」

彼には確実に何かが見えていた。

形があるものなのか、ないものなのか、わからない。

だが、確かにそこに何かがあるのだ。

表情も変えず、唇も動かさず、咽喉仏だけを動かして話す彼は、苦しみをふりしぼって歌っているように見えた。


拍手喝さいをあびる彼は、ひきつった笑顔を見せた。

ギターは彼を防御する鎧だ。

まるで、存在を隠すかのように、自分を透明に見せる。

瞳は濁りきっている。

前を見ようとしない、彼が見つめるのはギターの弦だけ。

震える咽喉仏だけが、彼が存在している証拠。

拍手喝さいをあびても、彼はにこりともしなくなった。

自然に動く指に、腕に、声。

彼はもう此処には存在していない。


彼はもう此処に存在していなかった。


そこにある何かに、彼は手を伸ばした。

「なぁ、連れて行ってくれよ。お前が在る場所はいいところなんだろう。」

たばこの灰がカーペットに落ちる。

一歩、一歩、大きな窓に近づいた。

目は、開いていない。


彼を取り囲む集団から、手がたくさん生えた。

太い腕に、細い腕。

指輪をしている指に、リストバンドをしている手首。

上に向かって伸びる拳に、手招きするかのような手。

手がたくさん生えた。

思い思いに動き回り、見えないエネルギーを放つ。

ぬくもりが欲しかった。

その手たちひとつひとつのぬくもりが欲しかった。

遠い、遠い。

彼には遠すぎる。


彼には遠すぎた。


「疲れた、疲れたんだよ。」

彼はその場に泣き崩れた。

膝をつき、声にならない泣き声でうずくまる。

液体が出てくる目をぎゅっとつぶって、手で覆って、頭を床に何度もうちつけた。

何度も、何度も。

涙、鼻水、よだれ。

あらゆる液体がカーペットを濡らす。

彼は、もう泣き声も出せずにいた。

そのまま、胎内にいたときのような格好でうずくまった。


いつものように拍手喝さいをあびた後、彼はめずらしく口を開いた。

「俺は思うんだ。もし、この世界が三十度傾いていたら、俺の人生は変わっていただろうって。

 当たり前のことかもしれないけど、もし、三十度傾いていたら・・・。

 欲を言うときりがないな。ははっ。

 もういい、この話は終わりだ。」

人々は彼の震える咽喉仏にため息をついた。

愛していた。



「この世界が三十度傾いていたら、俺は、ここに立たなくてよかったのに。」

唇も咽喉仏も動かさずに、彼は言う。


































 
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